デビュー戦 ― 灯がともる瞬間 ―

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 スタジアムの照明が、まだ薄青い夕空を押しのけるように光を広げていた。外野の芝生をかすかに撫でる風には、春の名残と夏の予兆が入り混じっている。その空気の中に、ひとりの青年が静かに立っていた。

 一ノ瀬悠斗、十八歳。
 今日が、彼の公式デビュー戦だった。

 ベンチ前でスパイクの紐を結び直す手が、ほんのわずか震えている。自分では気づかないほどの小さな震え。だが、隣で肩を軽く叩いたキャプテンの赤松には見抜かれていた。

「硬くなるなよ、悠斗。お前は普通にやればいい」

 言われた通りだった。普段の練習ではバットも振れるし、声も出る。だが、**「デビュー戦」**という言葉は、胸の奥を無意識に締めつけ、身体をいつもより少しだけ重くする。

 しかし、悠斗は赤松の肩叩きに悟られぬよう、小さく笑って答えた。

「ありがとうございます。……いつも通り、ですよね」

「ああ。お前はもうここにいる選手なんだ。新人だからって遠慮すんな」

 その言葉に、体の奥で硬く固まっていた何かが、少し溶けた気がした。

 グラウンドに出ると、客席からざわめきが起こった。まだ名も知られていない新人に向けられたものではない。試合前の高揚感、チームの雰囲気、今日を楽しみにしていたファンたちの期待。それらすべてが入り混じった空気の波が、スタンド全体を包んでいた。

 しかし、なぜかそのざわめきの一部が、自分の胸にも染み込んでいくような気がした。


■ 一ノ瀬悠斗が、この場所に立つまで

 悠斗は決して「天才」と呼ばれるタイプではなかった。

 小柄でもなく、大柄でもない。肩が異常に強いわけでも、足が抜群に速いわけでもない。だがひとつだけ、誰にも負けなかったものがあった。

 “目の前の一球を諦めない執念”

 高校時代、試合に出られない日々が続いても、彼はグラウンドの端でひとり黙々と自分のスイングを重ねた。泥が跳ねても、指の皮が剥けても、彼はスイングをやめなかった。

 そんな姿を見ていた監督が、一度だけ言った。

「悠斗、お前は派手じゃない。でも、誰よりしぶとい。そういう奴は強い」

 その言葉が、彼を支えてきた。

 そして今日。
 審判のコールが響きわたり、いよいよ試合が始まろうとしていた。


■ 一打席目 ― 震える心を押し殺して

 打順は七番。新人としては悪くない。むしろ期待されている位置だ。

 五回裏、無死一塁。
 スコアは 0対0 のまま。緊張感は張り詰めたままだ。

 コールが告げられる。

「七番、一ノ瀬。ライト」

 名前が放送で流れた瞬間、観客席が少しざわめいた。初めて聞く新人の名をチェックしようという、そんな軽い反応だ。しかし悠斗には、そのざわめきですら心臓を揺らすほど大きく感じられた。

 打席に入る。
 ピッチャーは142km前後の直球と切れ味鋭いスライダーが持ち味の右腕だった。

(いつも通り。ボールを長く見るんだ)

 心の中で自分に言い聞かせる。

 初球、外角低めのストレート。見送ってボール。

 二球目、また外角。だが、さっきより少しストライク寄り。これは見送りたかったが――体は勝手に動き、バットが出た。詰まった打球はセカンドゴロとなり、併殺崩れでアウト。

 期待に応えられなかった悔しさが胸に刺さる。

 ベンチに戻ると、赤松がボトルの水を投げて寄越した。

「悪くない。初打席なんてそんなもんだ。守備で取り返せ」

「……はい」

 短く答えて、自分のポジションへ向かった。


■ 守備でつかんだ、“流れ”

 六回の表。
 相手の四番が放ったライナーが、強烈なライナーとなってライト方向へ飛んできた。

(抜ける――)

 そう思われた打球に対し、悠斗は一歩ではなく「半歩先」を読み、芝生に足を滑らせるように踏み込み、グラブを伸ばした。

 掴んだ。

 飛び込んだ勢いで身体が横回転し、土が大きく舞う。
 観客席からどよめきが起こった。

「ナイスキャッチ!」

 赤松の声が一番に聞こえた。

 その瞬間、悠斗の中で何かが明確に変わった。

(ああ……やっと、俺はこのグラウンドに“いる”)


■ 第二打席 ― 初めての“らしさ”

 七回裏、二死走者なし。

(ホームランなんて狙うな。自分のスイングをしよう)

 相手投手のスライダーが多いことはわかっていた。
 初球、見逃しのストライク。
 二球目、落ちる系――これは振らない。

 三球目、またスライダー。今度は甘い。

 悠斗はコンパクトに、だが迷いなくバットを出した。

 乾いた“カン”という音が響く。
 打球はライト前に落ちた。

 球場から拍手が起こる。
 初ヒットだった。

 ベース上でヘルメットを軽く下げると、ベンチの仲間たちが大きく手を振ってくれていた。

(よかった……)

 心の底から安堵した。


■ 最終打席 ― 運命の一球

 そして九回裏。
 スコアは 1対1
 ランナー一塁、二死。

 バッターは――悠斗。

(もう、逃げられない)

 打席に立つ前、赤松が背中を叩いて言った。

「最後に立つのが新人でもいい。むしろお前がいい。遠慮すんな。一ノ瀬悠斗の“デビュー戦”を刻んでこい」

 その言葉が、体の奥に火を灯した。

 相手はエース級のリリーフ左腕。伸びるストレートと沈むツーシームが武器だ。

 初球、外角の直球。空振り。
 速い。だが見えないほどではない。

 二球目、内角ギリギリにツーシームが食い込んでくる。
 ギリギリで身体を引く。ボール。

(目の前の一球を諦めない。それだけだ)

 三球目、また外角直球。これは見送ってストライク。

 カウント 1-2
 追い込まれた。

 スタンドのざわめきが大きくなる。
 この回を抑えられれば、試合は延長に入る。

(いやだ。延長じゃなくて、ここで決める)

 四球目、ツーシーム。わずかに沈む球に、悠斗は食らいつく形でバットを合わせた。

 打球はファールゾーンへ。
 まだ、終わらない。

 五球目、外角低めいっぱいのストレート。これもファール。

 観客席が騒ぎ始める。

(負けたくない。ここで終わりたくない)

 六球目――。

 投手が大きく振りかぶる。
 放たれたのは、内角にわずかに入る“勝負球”のストレート。

(来た――!)

 悠斗は迷わず踏み込み、持てる力すべてを右腕に込めた。

 バットが鋭く振り抜かれ、衝撃が手に残る。

 打球はライト線へ伸びていく。

 一瞬、球場全体が息を呑んだ。

 ボールは白い軌道を描きながら――フェアゾーンに落ち、外野フェンスに転がった。

「走れ!」

 誰かの声が聞こえた。
 だがもう、悠斗は全力で走り出していた。

 一塁、二塁……
 三塁にかけて走る頃には、スタンドが揺れるような歓声になっていた。

 走者はホームへ――
 セーフ。

 サヨナラだった。


■ デビュー戦が終わっても

 グラウンドに倒れ込むように立ち止まると、赤松が駆け寄り、ヘルメットごと悠斗の頭を掴んで振った。

「ナイスバッティング! よくやった、新人!」

 他の仲間も次々に駆け寄り、肩を叩き、抱きしめ、喜びを爆発させた。

 観客席からは、先ほどまで名前すら知らなかった新人に向けられる歓声がこだました。

(これが……デビュー戦)

 胸の奥が熱くなる。
 それは涙に変わりそうで、変わらない熱だった。

――今日、自分は確かに“ここ”へたどり着いた。
 でも、まだ始まりにすぎない。

 悠斗は仲間たちの中心で、静かに拳を握った。

(もっと強くなれる。絶対に)

 照明の光が眩しいほど鮮やかに広がり、スタジアムの夜に新しい物語の幕が開いた。

【結末】― 静かに始まる、新しい物語 ―

 歓声がまだ耳に残っていた。
 サヨナラ打を放った瞬間の景色が、まるでスローモーションの映像のように脳裏で繰り返される。白いボールの軌道、外野へ抜けていく風のような手応え、ベンチから飛び出した仲間たち――そして、ホームへ滑り込んだ走者の手がベースに触れた瞬間に立ち上った、割れんばかりの歓声。

 ヒーローインタビューが終わり、球場のライトがゆっくり落ちていくと、初めて夜風の冷たさを感じた。
 その風にふと気づくと、悠斗は自分の手がまだわずかに震えていることに気づいた。

 喜びでも、緊張でもない。
 “自分が一歩だけ前に進んだ”その実感が、身体の奥を震わせていた。

「おい、一ノ瀬!」

 振り向くと赤松が、汗と土で汚れた顔のまま笑っていた。

「今日のヒーローが、そんな顔で立ってんなよ。もっと胸張れ!」

 そう言われて、悠斗は照れくさく笑った。
 胸を張るなんて、まだ自分には早い気がした。だけど――心のどこかで思う。

(いつか胸を張れる選手になりたい)

 ベンチへ戻る途中、スタンドの一角から誰かが叫んだ。

「一ノ瀬! 明日も頼むぞ!」

 名も知らぬ誰かの声。
 でも、それが妙に心に沁みた。
 今日まで、見向きもされなかった自分の名前が、確かに誰かの口から発せられ、届いた。

 その重みをかみしめながら、悠斗はゆっくりとグラウンドを見渡した。

 誰もいなくなった外野の芝。
 まだ熱の残る土。
 そして、打球が落ちたあのライト線。

 そこから始まった。
 今日、この瞬間から、自分の物語が本当に動き出したのだ。

(もっと強くなろう。もっと遠くへ飛ばそう。たとえ何年かかっても――)

 胸の奥に灯った小さな火は、もう揺らがなかった。
 静かな夜風が吹き抜ける中、悠斗はゆっくりとベンチの階段を上り、スタジアムの出口へ向かった。

 デビュー戦は終わった。
 でも、夢の旅路は、ここからようやく始まる。