春の風が校庭の桜をふわりと揺らしていた。満開の桜は、どこか新しい物語の始まりを祝ってくれているように見えた。高校二年の四月。教室の席替えで、僕——佐伯悠真は、ひとりの少女と初めて隣になった。
彼女の名前は 藤堂紗月(とうどう さつき)。
肩にかかるくらいの黒髪を耳にかける仕草が妙に大人っぽくて、教室の中でも静かな存在だった。目が合うと少し驚いたように瞬きをして、すぐにそらす。そんなところが、なぜか心に残った。
「これからよろしくね、佐伯くん」
席替え初日の昼休み。勇気を振り絞ったように紗月が話しかけてきた。声は小さいけれど、芯がある。
僕は突然のことに少し焦りながらも、笑顔を作った。
「うん、よろしく」
その瞬間から、僕の中で何かが変わった気がした。
■ 1. “気になる存在”が誰かに変わる瞬間
隣同士になったことで、自然と話す機会が増えた。
紗月は本を読むことが好きで、休み時間になると文庫本を静かに開いていた。僕が何を読んでいるのか尋ねると、嬉しそうに表紙を見せてくれる。
「最近はミステリーにハマってるの。伏線を見つけるのが楽しくて」
「へぇ、頭良さそうだな」
「そんなことないよ。ただ、誰かが作った世界に没頭できるのが好きなの」
その答えを聞いたとき、「あ、この子は優しい世界の住人なんだ」と思った。
クラスの中ではあまり目立たないけれど、話すと穏やかで、丁寧で、どこか寂しさを抱えたような笑顔をする。
僕は知らないうちに、隣のその横顔を追いかけるようになっていた。
■ 2. 放課後の図書室、二人だけの時間
放課後。
ある日、紗月が鞄を肩にかけながら僕に言った。
「ねぇ、今日……図書室行かない?」
「いいよ。行こうか」
誘われたのは初めてだった。
図書室は窓から夕日が差し込み、赤く染まった本棚がどこか幻想的に見えた。
「ここ、落ち着くよね。外の音が全部遠くなる気がする」
「紗月はいつもここにいるの?」
「うん。家より安心できるから」
その言葉の意味を深く考えたのは、もっと後になってからだ。
本を読みながら、時々小声で話す。ページをめくる音、遠くから聞こえる部活の掛け声、沈みゆく夕日。
気づけば、二人でいる時間が当たり前になっていた。
■ 3. 夏祭りと、はぐれた手の行き先
七月。
クラスメイトたちが「みんなで行こうぜ」と誘ってくれた夏祭り。僕が返事をするより前に、紗月が小さく袖をつまんできた。
「……一緒に行ってもいい?」
驚いたが、断る理由なんてどこにもない。
「もちろん。楽しもう」
浴衣姿の紗月は、いつもより少し明るい雰囲気で、僕の目を奪った。
射的、金魚すくい、夜店の賑わい……楽しいはずなのに、紗月は人混みに呑まれるように不安そうな顔をしていた。
「大丈夫?」
「……ちょっとだけ、苦手なの。人が多いの」
その瞬間、僕は自然と彼女の手を握っていた。
驚いたように目を見開く紗月。でも、逃げなかった。
「離れないように」
「……うん」
手のひらが汗ばむほど緊張した。でも、それ以上に紗月の手は頼ってくれているようで、温かくて、愛しくて胸が熱くなった。
夜空に大きな花火が上がり、二人で見上げた。
光が散るたびに、紗月の横顔が淡く照らされる。
「綺麗だね」
「……うん。ねぇ、今日誘ってよかった」
「俺も。すごく嬉しい」
花火が上がる音にかき消されそうな声で、紗月は言った。
「悠真くんといると、安心するんだ」
その瞬間、僕の心は完全に恋に落ちていた。
■ 4. 初めての告白
祭りが終わり、帰り道。
風鈴のように揺れる余韻の中、僕たちは並んで歩いていた。
「ねぇ、言いたいことがあるの」
紗月が立ち止まり、浴衣の裾をぎゅっと握る。
「私ね、今まで友達も少なくて……いつも一人が楽だと思ってた。でも、悠真くんといるとね、気づくと笑ってるの」
深呼吸をする紗月。
目をそらすでもなく、まっすぐ僕を見た。
「……だから、好き。悠真くんが、好き」
胸が締めつけられるほど嬉しくて、すぐには言葉が出なかった。
気づけば僕は、そっと紗月の手を握り返していた。
「俺も。紗月のこと、ずっと見てた。好きだよ」
紗月の目が潤み、ふっと笑う。
それは今まで見たどんな笑顔よりも柔らかかった。
「……ありがとう」
初めての恋人。
その瞬間、僕たちはぎこちないけれど確かな“恋”を手に入れた。
■ 5. 恋人になった日々と、小さな不安
恋人になってからも、日々は大きくは変わらなかった。
登校したら挨拶して、休み時間に本の話をして、放課後は図書室に寄った。
けれど、変わったことがひとつある。
ときどき紗月は不安そうに僕を見つめる。
「……迷惑じゃない?」
「全然。むしろ、一緒にいられて嬉しい」
「ほんとに?」
「当たり前だろ」
そう言うと安心して笑うけれど、その笑顔はどこか影を落としていた。
紗月は人には言えない孤独を抱えているのだと、僕は少しずつ理解し始めていた。
だからこそ、絶対に手を離したくなかった。
■ 6. 冬の図書室での約束
冬。
雪が降る日の放課後、図書室の窓際で紗月が静かに言った。
「ねぇ、ずっと一緒にいられるかな?」
「もちろん。紗月が嫌じゃなければ」
「嫌なわけないよ。でも……私、自信ないの。こんな私といて、悠真くんが幸せなのかなって」
僕は本を閉じ、言葉を選びながら紗月の手を取った。
「幸せだよ。紗月の全部を知りたいし、全部を守りたい」
紗月の目に涙が光った。
「……嬉しい。ありがとう」
その瞬間、彼女はそっと僕の肩に頭を預けた。
図書室の静けさの中、雪が降る音だけが遠くで聞こえていた。
あの日のあの温もりを、僕は大人になった今でも忘れられない。
■ 7. 結末 —— 初めての恋人が残したもの
高校生活の中で、初恋は特別なものだとよく言われる。
でも、僕にとって紗月との時間は“特別”を超えていた。
人の気持ちに寄り添うこと。
言葉だけでなく、沈黙の中にある想いも感じること。
そして、大切な人を守りたいと思う気持ち。
その全部を、紗月が教えてくれた。
卒業式の日、僕たちは別々の道を選んだ。
離れた理由は、夢、環境、家庭……色々あったけれど、お互いを嫌いになったわけではない。
最後に紗月は泣きながら言った。
「悠真くんと出会えて、恋人になれて、本当に幸せだった。
私ね、あなたがくれた優しさを、これから出会う人にもちゃんと届けたい」
その言葉を聞いて、僕は涙をこらえながら笑った。
「俺もだよ。紗月と過ごした時間は、俺の宝物だ」
別れたあと、僕はしばらく桜並木を歩いた。
風に舞う花びらが、あの日の紗月の笑顔と重なった。
初めての恋人。
それは、永遠ではなかったけれど、確かに僕を成長させてくれた。
そして今でも、桜が咲くたびに思い出す。
図書室の静かな空気。
夏祭りで握った手の温度。
冬の窓際で交わした小さな約束。
——あれが僕の人生で初めての“恋”だった。

