六月の終わり、梅雨が明ける直前の曇り空。どんよりとした雲の隙間から、時おり太陽の熱が顔をのぞかせる。そのたびに、砂のグラウンドはじりじりと焦げるように熱せられ、空気の向こうが揺らいだ。
その日が「最後の部活」だという実感は、朝からずっと胸の奥にひりつくようにあった。けれど、部室の扉を開けた瞬間、私はいつもの空気に包まれて、その実感が薄れていった。
汗の染みこんだマット。剥がれかけたホワイトボード。部員たちの笑い声。何度も何度も聞いてきた、かすかに汗と洗剤が混ざったにおい。
——すべてが、今日で終わる。
「おはよ、優斗。なんだよその顔、葬式か?」
キャプテンの遥斗が、ふざけたように肩を叩いた。
「いや、普通の顔だろ」
「普通じゃない。お前、絶対泣くタイプだよなぁ今日」
「泣かねえよ。……たぶん」
ほんの少し笑ったつもりだった。でもうまく笑えていたかはわからない。
私たち三年は、あと一週間で引退。今日はその前に行う、引退前最後の“通常練習”だった。大会当日は特別な緊張があるけれど、この日は違う。いつも通りの練習。だけど、これが最後の「いつも通り」だ。
だからこそ、この空気が胸に刺さる。
最初のアップを始めたとき、思わず空を見上げた。曇っているくせに蒸し暑い。額から汗がつーっと流れた。
「優斗、遅いぞー!」
後輩の陸が声をかけてきた。なんとも生意気だ。
「お前が速すぎんだよ。二年のくせに調子乗るなって」
口では文句を言いながらも、その勢いに少し助けられている自分がいた。
陸は私が一年の頃から懐いてくれている後輩だ。素直で負けず嫌いで、誰より声が大きくて、そして誰よりも努力家。
大会が終わったら、彼がチームを支える存在になるのだろう。
それを考えると、胸の奥がまたじんと熱くなる。
練習は淡々と進んだ。ウォーミングアップ、基礎練習、フォーメーション、実戦形式。
一つ一つが、ただのメニューではなく、思い出のかけらに変わっていくようだった。
——このラインを走ったのは何回だろう。
——この掛け声をあと何度言えるだろう。
——この場所で、俺たちはどれだけ笑って、どれだけ悔しがってきたんだろう。
集中しようとしても、どうしても心が揺れる。
そんな私を、顧問の先生は横目で見ていた。今日が最後とわかっているのだろう。何も言わず、ただ見守るような眼差しだった。
練習後半の紅白戦。
ここだけはみんな本気になる。勝ち負けより意地とプライド。
「三年は赤チームだ。最後だからな、派手に勝って終われよ」
顧問の言葉に、空気がぴんと張り詰めた。
笛の音が鳴る。\
砂が巻き上がる。\
全員の足音が食いしばるように地面を踏みしめる。
後輩たちは容赦しなかった。むしろ、今日だからこそ手加減しないという顔をしている。
「優斗先輩、抜かれますよ」
陸の挑発的な声。これがまたムカつく。
「言ってろ!」
そう言い返しながらも、彼のスピードに必死でついていった。
汗が背中を伝い、息が焼けるように苦しい。
でもその苦しささえ、愛おしいと思えた。
——この感覚が、もうすぐ終わってしまう。
最後のプレー、全力でボールを追いかけた。
足がもつれそうになりながらも、手を伸ばし、ボールをつかむ。
笛が鳴る。
赤チームの勝ちだった。
練習が終わり、部員たちは一斉に水を飲んで倒れ込むように座った。
わいわいと騒ぎながら、今日のプレーを振り返り、笑い合っていた。
——その光景を見ているだけで、涙がこぼれそうになる。
「優斗、ほら。最後に三年で撮るぞ」
遥斗がスマホを持ち上げた。私ともう一人の三年、悠人が横に並ぶ。
笑顔で写真を撮った。
でも、シャッター音の後、三人とも同時に黙った。
言葉にできない感情が、胸の奥でぐるぐると渦を巻いていた。
すると、陸たち後輩が走ってきた。
「先輩たち、今までありがとうございました!」
一斉に頭を下げた。声が震えている子もいた。
その瞬間、私はもう堪えられなかった。
「お前ら……泣かせに来てんじゃねえよ……」
涙を見られたくなくてうつむいた。だけど止まらなかった。
遥斗も悠人も、笑いながら泣いていた。
顧問がゆっくり歩いてきて言った。
「三年間、本当によく頑張った。お前たちが土台を作ったチームだ。あとは後輩たちが引き継ぐ。」
その言葉が、今までの努力をすべて肯定してくれた気がした。
片付けが終わり、部室で最後の準備をしているときだった。
陸がそっと近づいてきた。
「優斗先輩……僕、絶対に強いチームにします。だから、安心して引退してください」
「安心なんかしてないよ。むしろプレッシャーだわ」
「大丈夫です。僕、優斗先輩に追いつきたいんで」
涙目で笑っている陸の顔を見て、私はこの部活に入って良かったと心から思った。
帰り道。
グラウンドから聞こえる後輩たちの声が、夕焼けの空に消えていく。
夕日が沈む前の、わずかに赤く染まる時間帯。
汗のにおい、砂のざらつき、友の笑い声、悔しさも、誇りも——すべてが胸にぎゅっと詰まっていた。
歩きながら、私は再び空を見上げた。
今日の曇り空は、どこか温かい色に見えた。
——終わってしまった。でも、終わっていない。
大会まであと数日。
引退は確かに近い。でも、今日の涙も笑顔も、すべてが未来につながっている。
「よし……最後、勝とう」
小さくそうつぶやくと、胸の奥に静かに火が灯るのを感じた。
最後の部活は終わった。
でも、仲間と戦う最後の大会は、まだこれからだ。
——風が止んだあとに残るもの
大会当日。
スタンドから聞こえる歓声と、胸の奥を締めつけるような緊張感。
最後の試合が始まった。
結果は——負けだった。
悔しいほどの一点差。
最後の最後まで食らいついたけれど、あと一歩届かなかった。
試合終了の笛が鳴った瞬間、膝が勝手に地面へ落ちた。
呼吸が荒くて、悔しくて、声も出なかった。
だけど、横を見たら——遥斗も、悠人も、そして後輩たちも泣いていた。
「優斗先輩……すみません……守り切れなくて……」
陸が震えた声で言った。
私は首を振った。
涙で視界がぼやけながら、陸の肩を軽く叩く。
「違うよ。お前ら、強かった。俺……誇りだったよ」
その瞬間、陸が声を上げて泣き、周りの後輩たちも、まるで堰を切るように泣き出した。
そして、泣きながら笑い合った。
「三年、円になれ!」
顧問の声に促されて、私たちはグラウンドの中心に集まった。
湿った土の匂い。汗。涙。
その全部が、胸の奥に焼きついていく。
「結果は残念だった。だが——お前たちは“強い”チームだったぞ」
顧問の言葉に、遥斗が泣きながら笑った。
「先生、それ褒めすぎです」
「本気で思ってるよ。お前らの三年間を、俺は誇りに思う」
それを聞いた瞬間、私は胸の奥がじんわりと熱くなり、こらえていた涙がこぼれた。
試合後、観客席に向かって深く頭を下げた。
涙で顔がぐしゃぐしゃだったけれど、そんなことどうでもよかった。
「……終わったな」
遥斗がぽつりと呟く。
「終わった。でも……悪くなかったよな」
「悪いどころか最高だったに決まってんだろ」
悠人がそう言って、三人で拳を軽く合わせた。
それは「解散」の合図でもあり、「また会おう」の約束でもあった。
夕方、みんなと別れたあと、一人でグラウンドに戻った。
夕日がゆっくり沈んでいく。
誰もいないグラウンドは、不思議と広く見えた。
私はその真ん中で、深く息を吸った。
——この景色を、絶対に忘れない。
今日までの日々が、私を強くしてくれた。

